逃避が憎しみの名を求めるとき
逃避が憎しみの名を求めるとき いわゆる憎しみというものは、多くの場合、そこまでのものですらないが、物事を単純化するがゆえに安易な逃げ道になる。ひとりの人間を、そのすべての混沌ごと取り上げて、ただの標的へと縮減してしまう。私はそれをあなたに対してはできない。高潔だからではない。そうすることは自分自身に対して不誠実になるからであり、そんな嘘はもう抱えきれない。 私はあなたを憎む必要はない。もしあなたが意図的に私を過ちへと押しやったのなら、理由はあっただろう。だがそれでも、あなたを憎む前に、私はまず自分自身を憎むだろう。誰かを罰したいのに、自分の執着を認める勇気がないときに、心がそうするように。そうした場合の怒りは、まだ愛していてつまずいたという羞恥を覆い隠す仮面にすぎない。 愛。この言葉は大げさに聞こえる、わかっている。だからこそ居心地が悪い。なぜならそれは損害の帳簿には収まらないからだ。最後の対話よりも古く、最後の過ちよりも深い。最も純粋な感情は常に私たちの過ちよりも大きく、それこそが、あなたを都合のいい悪役へと変えてしまうことを私に許さない。 ただし、胸をえぐる一点がある。あなたの過ちはあなたのものであって、私のものではない。私は長いあいだ、それを自分のもののように背負って生きてきた。物語を保つために罪を引き受ける者のように、その結果を引き受けてきた。そして今に至るまで、あなたはそれを認めていない。認めないか、認めても直視できないのか。 それなのに、あなたは私にあなたを憎めと言う。 この光景を静かに思い描いてほしい。自らの裁きを求め、ほとんど判決を乞うような人間。他者の憎しみが内側を整えてくれるかのように。見られることより、憎まれるほうが楽であるかのように。憎しみには、少なくとも形がある。だが愛は責任を要求する。存在することを要求する。すべてが逃げ出したくなるときに、その場にとどまる勇気を要求する。 もし私があなたを憎めば、あなたはもっと楽になるのかもしれない。そうすれば、自分の去る理由を単純に説明できるからだ。自分の弱さと向き合う必要はなく、ただ私のいわゆる残酷さだけを見ればい...